“中小企業のおやじ”を自称し、気さくな人柄で知られる一方、経営トップとして、スズキを世界的な自動車メーカーに育て上げた鈴木修氏。
去年12月に94歳で亡くなった鈴木氏のお別れ会が今週開かれ、出席者からは存在の大きさを惜しむ声が聞かれました。1978年から42年余りにわたって会社を率いた鈴木修さんの足跡をたどります。
お別れの会

4月8日に都内で開かれたお別れの会には石破総理大臣や静岡県選出の国会議員のほか、鈴木修さんを「おやじ」と慕うトヨタ自動車の豊田章男会長など、政財界を中心におよそ1900人が集まって別れを惜しみました。
祭壇にはお気に入りのジャケットを着てほほえむ写真が飾られ、社長に就任した翌年(1979年)に発売した軽自動車の初代「アルト」や愛用していたゴルフ道具など本人をしのぶ品々も展示されました。

長男で社長を務める俊宏氏は、「あるときは厳しく、あるときは激しく、常に愛情を持って、長きに渡って私たちを引っ張ってくれました。鈴木修の信念とやる気を受け継いで、スズキを発展させていくことが私たちの恩返しだと思っております。ゆっくりお休みください。ありがとうございました」とするコメントを出しました。
「中小企業のおやじ」の原点
(岸正浩 解説委員)
鈴木氏は岐阜県下呂市出身で愛知県内の銀行を経て創業家の二代目社長の娘婿として入社しました。
若い頃の話を聞いた際に本人がよく話していたエピソートがあります。
入社まもない30代の時に「豊川工場」の建設を任されます。
経験もないのに一から工場を立ち上げる重要プロジェクトはいわば“むちゃぶり”で、「娘婿がどこまでやれるのか」といった事も言われたそうです。プレッシャーもかかる中で周りはすんなりと協力してくれません。

ここからはあえて“修さん”と書かせてください。
そこで若き日の修さんは現場の従業員や建設関係者ととことん付き合います。
時には深夜まで酒を酌み交わしながら議論を重ね、徐々に協力を得てなんとか工場を作り上げます。
除夜の鐘を聞きながら完成を祝ったそうです。
大学は法学部だったため特に車の生産に詳しいわけではありません。ただ、この時に生産技術や工場の基礎を学んだ。いや“たたき込まれた”と言った方がいいかもしれません。
しかし、これが後々、生きていきます。
修さんと言えば工場の隅々まで無駄がないかみずからチェックする「工場監査」が有名です。
引退するまで続けられ、部下たちを恐れさせるミリ単位の厳しい指摘。豊川工場の経験がその原点だったと思います。
「アルト」のヒット、グローバル化も“逆張りの発想”

こうした経験を積み重ねながら1978年に社長に就任します。
そして翌年にはスズキを代表する軽自動車「アルト」を発売、大ヒットさせます。
実は車の名前のPRのやり方は修さんが考えました。
「あるときにはレジャー、あるときには通勤、あるときには買い物に使える。あると便利なクルマ」。
いろんな用途に使える便利な車だとダジャレ?でアピールしたわけですが、こういうことを思いつくところが修さんのユニークなところです。
海外進出も忘れてはなりません。
今ではスズキの代名詞ともなったインドには1980年代に進出し、いち早く自動車の生産を始めます。
さらに1990年代にはハンガリーで生産を始めます。東欧に進出した自動車メーカーは初めてでした。
ほかの自動車メーカーが行かない地域にあえて果敢にチャレンジする。修さんはみずからを「中小企業のおやじ」と言いますが、大手メーカーにできない“逆張りの発想”だと思います。

私は1995年にインドに続く次の有望な市場として注目されたベトナムに進出する際に取材をしたのですが、この時に記憶に残っているのが現地工場の開所式の一幕です。
出席したベトナム側の役人のあいさつなどの段取りが修さんが考えていたのと違っていたのです。
私から見るとたいして問題ないレベルかと思いましたが、一緒にいたスズキの幹部は修さんから「段取りが違う」と厳しく注意されていたのが思い出されます。
海外進出でうまくいかなかった国もあります。ただ、インドなどの成功を見ると、政治体制や文化、風習が違う国でビジネスを進めるためにさまざまな事に気を配る、修さんならではの緻密な計算があったと感じます。
「GMが鯨なら、スズキは蚊」

(横山善一 おはよう日本部副部長)
2000年代、スズキは世界の自動車メーカーの合従連衡の荒波にもまれることになります。
“世紀の合併”と言われた1998年のドイツの「ダイムラー」(メルセデス・ベンツなど)とアメリカのビッグ3の一角「クライスラー」の経営統合をきっかけに、世界の自動車メーカーは販売台数など「規模」を競う時代に入ります。
技術開発などにかかる投資をまかなうには規模の大きさがカギとなると考えられていました。
こうした中で、GMがスズキへの出資比率を20%に引き上げる一方、スズキ側もGM株を取得するなど関係を強化していきました。
その頃のGMはスズキだけでなく、「富士重工業」(いまのSUBARU)や「いすゞ自動車」、ヨーロッパではドイツの「オペル」やスウェーデンの「サーブ」などを含む巨大なグループを形成していましたが、スズキは経営の独自性を保ちながら「アジアと小型車」という強みを発揮する役割を担う形になっていました。
当時、修さんはGMとの提携について、「GMが鯨なら、スズキは蚊だ。だが鯨に飲み込まれず、空高く舞い上がれる」とよく語っていました。
より大きな相手への「意地」を感じることばです。
そのGMとの関係が一変するきっかけになったのが、2008年のリーマンショックです。
大手金融機関の破綻の影響がアメリカのみならず世界経済に波及。自動車ローンなどを収益の柱にしていたGMも業績が悪化し、経営破綻しました。
修さんが良好な関係を築いていた当時の会長兼CEOリック・ワゴナー氏も退場し、こうした変化のなかでGMとスズキの資本提携は解消されることになりました。
VWと提携も「対等の精神」めぐり関係悪化

修さんが次の提携先に選んだのがドイツの「フォルクスワーゲン(VW)」で、2009年に包括提携を発表。
スズキはVWの環境対応などの新技術、VWはスズキが強いインド市場の強化などがねらいでしたが、「対等の精神」をめぐって、両社の関係はまもなく悪化。
期待していたディーゼルエンジンに関する技術提供が進まず、スズキが不信感を高めていたところに、VWがスズキを財務・経営面で重大な影響を及ぼせる会社と位置づけました。
修さんは「対等な関係だとした両社の約束に反する」として国際仲裁裁判所に提訴。4年にわたる審問の結果、スズキ側の主張が認められる形でVWとの提携を解消しました。
修さんは2000年に非創業家出身の戸田昌男氏に社長をバトンタッチ。
2003年からは同じく非創業家の津田紘氏が社長となり、修さんは会長として2人を後見していましたが、さまざまな事情が重なり、リーマンショックの荒波の真っ最中の2008年から再び社長を兼務し、難局に臨みました。
その際のことばが、「30年間右肩上がりで伸びてきたが、安泰ムードを招いた私が先頭に立って、立て直す」
近年、修さんは「生涯現役」を公言していましたが、本当の意味でその腹を決めたのはこの頃だったと思います。
資本提携は会社の命運を左右し、ひとつ手がけるだけでも相当な胆力が求められますが、GMとの提携解消からVWとの電撃的な提携と対立、その後のトヨタとの提携に至るまで、より大きな相手にも一歩も引かず、常に経営者としての「意地」を示し続けました。
経営トップとしての修さんのまさに真骨頂でした。
インド成長も“電動化”などに危機感

(佐々木悠介 経済部記者)
他社に先駆けて進出したインド市場は2017年ごろにはスズキの世界販売の半分以上を占めるほど成長していました。
この年、西部グジャラート州に新工場を整備し、生産体制を強化していましたが、この頃の修さんからは「危機感」という言葉をよく聞くようになりました。
「あのGMがアメリカのシェア20%を切った。うちのインドシェア47%も一瞬で地に落ちる可能性がある。1時間たりとも油断してはいけない」
当時、世界各国が自動車の電動化の目標を打ち出し、インドでも2030年に電動車100%という目標を掲げていました。(※後に政府は目標を修正)
修さんはインドの電力インフラや当時の車載用電池の技術を見ると、インドでEVが流通するのはかなり先だと分析してはいましたが、EV、HV、自動運転など、どんな技術が主流になっても対応できるよう全方位で研究開発を進める重要性を語っていました。
私はインド進出から35年たったタイミングで修さんに話を聞く機会がありましたが、今後のインド市場について「今後は自分が経験してきた35年と全く次元が違う苦労があると思う。ただ、それを苦労と思わずに、新しいチャレンジだと思って『楽しむ』ことが重要だ。僕はその時代にこの世にいないだろうが、スズキの後輩たちがこれから35年後、どうチャレンジして、いまの課題を克服するかあの世から見ていたいと思う」と話していたのが印象的でした。
トヨタとの提携 そして…

(小尾洋貴 経済部記者)
電動化や自動運転など新しい技術への対応に危機感を抱いていた修さんは、2019年にトヨタ自動車との資本業務提携に踏み切りました。
両社の提携のきっかけは1970年代にまでさかのぼります。
当時スズキは、世界一厳しいとも言われた排ガス規制に対応するエンジンの開発に失敗。その時、専務だった修さんはトヨタからエンジンの供給を受けることを決断し、危機を脱しました。
修さんはこれをきっかけに名誉会長を務めた豊田章一郎さんからアドバイスを受けるようになり、その息子で現在、トヨタの会長を務める章男氏とも交流するようになりました。
そして、課題となっていたEVなどの技術供与をトヨタから受けることにしたのです。
この提携について、修さんは「提携を結ぶことができてうれしいが、一方的にトヨタさんにお世話になるのではなく、自分たちも少しでも貢献できるように関係を深めていきたい」と話していました。
そして、そのことば通り、強みを持つインド市場では現在、スズキがトヨタの車を生産しています。

修さんは、2015年6月に副社長だった長男・俊宏氏に社長を引き継いだあとも、会長として引き続き経営手腕を発揮しましたが、2021年に相談役に退きました。
「生涯現役」と言っていた修さんが、なぜ退任を決めたのか、その理由を知りたくて、直後に修さんに聞いてみました。
修さんは仕事が上手くいった時などに「勘」と「コンピューター」を組み合わせた「勘ピューター」という言葉をよく好んで使っていましたが、この時は「勘ピューターが働かなくなりましたから」と話したあと、「婿養子として入社し、困難の連続だったが、必死に働いてきた。だけどこれからの電動化は私の知識だけでは難しい。これからは一歩引いて新たな経営陣のお手並みをみていきたい。新たな経営陣もやればできますよ」と語り、会社のさらなる成長に期待していました。
心に残る修さんの言葉

(岸正浩 解説委員)
当時の取材で今でも心に残る修さんの言葉があります。
「やる気」「負けん気」「根気」の“3つの気”です。
特に「やる気」という言葉を好んで使っていました。新たなことに挑戦する時の信条だったと思います。
4年前に経営から退く際の会見で、息子の俊宏社長に「世界でどこの市場が有望とアドバイスするか」という記者の質問に対して「地球上には市場が無限にありますから、歩いて歩いて行動。行動して発見したら、そこにマーケットがありますから。大丈夫です」と答えていたのが印象的です。
その心には“3つの気”があったように感じています。
デジタル化や電動化が進んで車作りも大きく変わり、昭和的な職人気質の時代は終わったかもしれません。
ただ、修さんが残した精神はかつてのような光を失っている多くの日本企業に重要な示唆を与えているのではないかと思います。
(4月8日「たっぷり静岡」などで放送)
Source: https://www3.nhk.or.jp/news